夜中になるとことばを吐く虎鉄くん。

これ、漫画で見たかった

僕の恋人は、深夜になると言葉を吐く。
今夜も彼は、蹲って洗面器に向かって言葉を吐いていた。
今日は、これ以上言葉を吸い込まないように、テレビもラジオもパソコンも、言葉が流れてくるものは全て遮断して、防音のために厚めの物を選んだカーテンで窓を遮った部屋の中で、虎鉄君は黙って座っていた。
よせば良いのに僕が入れた紅茶の、もったいないからと茶葉からにじみ出る最後の数滴の、一番苦い部分をマグカップの底に貯めて、渋い顔をしてちびりちびりと舐めていた。
その動きが突然止まって、マグカップを静かにテーブルの上に置くと、彼は胸に手を当ててじっと動かなくなった。
僕も黙って彼の様子を眺めていた。沈黙と静寂に埋め尽くされた部屋の中で、虎鉄君がゆっくりと体を動かし始める、骨の軋みや筋肉の収縮する音、それから彼が纏う服が動きにあわせて擦れるおとまで、聞こえてくるような気がした。
立ち上がった虎鉄君は、洗面所からいつもの洗面器を抱きかかえるようにして持ってきた。
部屋の入口で、こらえきれなくなったらしく、崩れるように座り込み、洗面器に向かってむせる。
何度も咳き込みながら、彼の唇から、言葉が、流れ出た。
おはよう、いただきます、今日は仕事で、おはようございます、お疲れさまです、その件については折り返しご連絡を次々に零れてくる言葉は、彼が朝起きてから、今日最後の言葉を耳にし、口にするまでに彼の体に降り注いだ、そして彼が口にした言葉だ。
苦しげに急きこみ、何とか酸素を取り込みながらも、長い時間をかけて言葉を吐く。
音にならない、言葉は、牛尾の目には明朝体の活字がぽろぽろと零れ落ちて来るように映った。虎鉄の唇から零れてた言葉は、洗面器に着地する前に、空気に溶けて消えていく。
やがて零れてくる言葉が減ってきた。漸く今日の分が終わるらしい。
ただいま、おかえり、ごはんは、お風呂に、彼がこの部屋に帰ってきてからの、牛尾にも覚えのある言葉が、ほろりほろりと落ちて来る。
暫らく零れてくる言葉が止まった。
虎鉄が胸を押さえて、苦しそうに何度も咳き込む背中を、そっと撫でると、彼の体がまた痙攣して、次の言葉を零した。
今夜はあと二つだけ、それでおしまい。長い間吐き続けた彼の口の周りは、唾液と何かで汚れている。
言葉が再び落ちてきた。

うしおさん
あいしているよ

虎鉄は、最後の言葉が目に映ると、心臓でも落ちていったかのような必死さで手を伸ばして、もう霞んでしまった言葉を手のひらに受け止めたが、その頃には零れた言葉はもう見えなくなっていた。
全身で呼吸を繰り返し、何度も咳き込む虎鉄の顔を覗き込むと、彼はげっそりと泣き笑いして、そうして今夜も眠りに落ちた。
僕の恋人は、深夜になると言葉を吐く。
これ以上彼を苦しめないように、牛尾は眠りに落ちた虎鉄の体を抱きかかえると、お休みと、音にせずに胸の中で呟いた。