【アイスクリームの唄】
すごく昔に友人のために書いたものその2
すごく昔に友人のために書いたものその2
それはそれは実に見事な、どうにもこうにも圧倒的に負けたのだ。
「それ、おいしそうですね」
声と供に突然現れた顔に心臓が飛び出しそうになる。黄瀬は妙な声を上げ、手に持っていたカップアイスクリーム付属の薄っぺらい木製スプーンに載っていたバニラアイスが地面に落ちる。
「あ、もったいない……」
「黒子っち!急に声かけないでくださいよ」
未だに早鐘を打つ鼓動が彼に届いてしまわないかと気が気でない、。落ちたバニラアイスは黒子の静かな視線の先で、暑い太陽光と焼けたコンクリートにはさまれ、じわりじわりと溶けていった。
ぱたり、黒子の白い顎を伝い、汗が一滴、コンクリートに落ちて黒い小さな染みができる。
「それ、おいしそうですね」
それ、と指差されたのは黄瀬が手に持っていたアイスクリームだ。食べ初めてそんなに時間はたっていないのに、この狂ったような暑さの中で、すでに表面がいくらか解けて濡れそぼっている。
「食べるっすか?」
スプーンにアイスクリームを一口分乗せて、彼の色の薄い唇へと差し出してみたが、一瞬の迷いもなくその首が左右に振れる。
「自分で買いに行きます。今日はバニラよりチョコの気分なんです。」
まただ。
では、と襟元を仰ぎながら、校外のコンビニへ足を向けた後姿。
まただ。
彼は一度だって、黄瀬が与えるものを口にしようとしないのだ。
黄瀬が与えるものだけではない。入部してからかれこれ一年。彼が誰かの与えたものを食べている様を見たことが無い。
小さな背中が校門を抜けて人通りにまぎれれば、見失ってしまうまでそう時間はかからなかった。
小さく舌打ち。食べかけのアイスクリームに力いっぱいスプーンをさした。 熱で緩んだそれは、予想よりもずっと少ない抵抗力で薄い木ベラのスプーンを容器の底まで誘い込んだ。指先が油分と等分に汚れてべたべたする。
汚れた指先をそのまま口へ運んだ。甘い。甘い。甘すぎる。
「もういいや」
突然アイスクリームへの興味をなくし、黄瀬は中身が残ったカップを、茂みの陰にひっくり返した。溶けかけのアイスはいとも容易くずるりと落ちて鈍い音を立て地面に墜落した。
人目につかない位置だし、はびこる雑草の下は地面だ。いかにコンクリートで塗り固められた土地だといっても、これだけあからさまに放置された糖分なら、そのうち虫が片付けてくれる。
晴れて空になった容器を律儀にゴミ箱に捨てに行った。
ゴミ箱を求めて校舎に入り、日差しが遮られたとたん体感音頭がぐっと下がる。
突き刺さるような日差しは痛い。
未だにひりひりと余韻の残る首筋を撫でながら、目的のゴミ箱を発見して容器を投げ入れた。
軽い音を立ててゴミ箱の縁に当たった容器がゴミ箱の中ではなく、外へ落ちる。落ちてこびりついて残ったアイスがはねて廊下を汚した。
またしても舌打ち。
どうにもこうにもうまくいかない。
やり場の無い苛立ちに任せて廊下を蹴ると、置いてあった傘立ての角につま先をぶつけて、走る衝撃。つま先から脳天を突き抜けるほどの激痛。思わず息を呑んでうずくまる。
うずくまって目に入ったバニラアイスのカップは、廊下の上で伏せる格好で転がっていて、ああきっと、この容器を持ち上げたら溶けたバニラアイスで汚れた廊下が顔を出すんだ。
どうにもこうにもうまくいかない。
ままよと廊下に尻を下ろせば、意外にもそこは冷たかった。その場で胡坐をかいて、腕だけ伸ばしてカップを拾い、もう一度ゴミ箱へ向けて投げ込んだ。
今度こそカップはゴミ箱の中へ落ちる。
カップが転がっていた場所には案の定溶けたバニラアイスの跡。つま先の痛みが治まるのを待ってから立ち上がり、廊下に干してあった雑巾を適当にぬらしてしぼり拭き取った。もう一度雑巾を洗って返す。
どうにもこうにも日差しに脳みそが焼かれてしまったらしい。
どれもこれも、黒子がアイスを食べてくれないのも、カップがうまくゴミ箱に入らないのも、それでろ過を汚してしまうのも、挙句つま先をぶつけてしまうのも、全部全部暑さのせいだ。
校舎を出ると、容赦の無い日差しが肌を刺してひりひりと。
まるで焦がれて焦がれて自分のようだ。
笑った声は口の中で転がり落ちて、実に哀れに響いた。
自分は彼をこうも焦がしているのだろうか。狂おしいほどに一方通行。焦がれるばかりで、胸の奥がひりひりと痛い。
勇気と供に差し出した、気持ちと逆に冷たいアイスクリームも、適当に流されて返ってきた。
「黒子っちが…」
口に物を入れているのを見たいなあ
その血の気が薄い唇に、黄瀬が差し出したスプーンの上に乗った、糖分と脂肪分を冷気で固めた物体を咥えさせて、その口の端から零れ落ちる雫が唇から顎へと、顎から地面へと、ぽたり。
小さな喉仏がささやかに上下して、男の割りに大きい瞳がくりくりと黄瀬を見上げる。見上げてその唇が開く。そこから覗く舌先は、熟した果実のように赤い。
ぞ、
項を這い上がる独特の興奮に包まれて、黄瀬は思わず頭を左右に振った。
「馬鹿、んなんじゃねぇよ!」
誰もいないのに、自分自身を強く叱咤し、それでも収まらない胸の奥の熱の塊。
ひりひりと焼け付く肌、ひりひりと焼け付く喉、ひりひりと焼け付く胸の奥の心臓よりももっと奥、きっとそこは焦がれ焦がれて真っ黒だ。
体育館の裏に備え付けられた水道に走り、焦げてしまった肌ごと冷やし固めたい胸の奥、勢いよく水道から水を吐き出させて、頭を突っ込んだ。髪の毛が濡れて重みが増し、やがて頭皮に冷たい冷たい水が染みる。
頬を伝って唇に忍び込む水を舐め取ると、先ほど食べていたアイスクリームの残り香か、甘い味がした。
水を浴び続けてしばらく、ようやく落ち着いて顔を上げると、体育館の裏から人の声が聞こえた。
知っている声。頭より先に耳が覚えている。
それは紛れも無く、強く鼓膜に焼きついた黒子の声だ。
驚かせようと足音をしのばせ、そっと体育館裏を覗く。
そこにいたのは陰が二人。
小柄な黒子と、大柄な青峰だ。
二人は並んでアイスを食べていた。
さっきチョコレートの気分だといったくせに、黒子が持っているアイスのパッケージは白。
「やっぱりバニラじゃないっすか」
聞こえないように呟いた。
彼の適当な断り文句。
冷ましたばかりの胸の奥がチクリチクリと痛み出す。
「青峰くん」
呼ばれた名前は自分のものではないのに、どくんと心臓が大きく跳ねた。思わず息を呑んで声をつめる。
「それ、おいしそうですね」
「ああ、んだよ、食べるか?」
「はい。なんだかチョコの気分なんです。」
「じゃあ最初からチョコ買えよ」
青峰が笑いながら差し出したのはチョコレートの棒アイス。彼がかじった葉型がそのままくっきりついている。
黒子は
「いただきます」
唇の両端を持ち上げて、そのアイスにかじりついた。
ああ、ああなんと、なんとも圧倒的に、それはそれは実に見事な、どうにもこうにも圧倒的に負けたのだ。
燦燦と照る太陽に、白い喉仏を向けて空を仰ぐ。
突き刺さる太陽光線。染みるような青い空。
突き刺さる太陽光が肌を刺して、焦がれた胸のうちが真っ黒に焦げてこげ落ちる。
たまらないほどの激痛と、こみ上げてくる嗚咽を飲み込んで、黄瀬はその場を立ち去った。
チョコレートの甘い甘い甘いにおいが、ここまで届きそうなほどの、たぶんそれはアイスのせいではなく、二人のかもし出すたまらないほどの甘い空気。
これはもうどうにもこうにも、なんとも滑稽に実に見事な敗北。
どれもこれも全部、全部全部暑さのせいだ。
走りながら落ちて来る涙を飲み込めない。
焼け付く喉に塩気が強い水分は痛すぎる。
今日はもう、体育館には戻れそうに無かった。
【終幕】
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