またしても余輩のナーマではなかった。
優しい言葉で、しかしはっきりとマグナイの質問をはねつけた女性がまた一人、明けの玉座を去っていく。
彼女と入れ違いに入ってきた、赤みの強い褐色の肌をしたアウラが一人、ヒカルだ。
彼は去っていく女性と、マグナイを交互に見て、マグナイを振り返ると
指をさして笑った。
「無礼だ!」
大声を上げてみたつもりだったが、はかなすぎる希望を失ったばかりで傷が痛く、まるでしおれた声だった。
ナーマに会うには二人きりであることが大事だと、そういう理由ではあったが、兄弟たちに席を外してもらったのは正解だった。
明けの玉座の住人ではないにもかかわらず、草原の覇者という偉業を成し遂げたヒカル。
この人払いをさせている場所に、遠慮なくずけずけと入ってくる勇気があるのも、それを無理に兄弟たちが止めないのもきっと彼くらいのものだろう。
「あんたも懲りないな、今度はどこの部族の子だ。」
「知らん。」
たとえ知っていたとしても、図ったかのようにこんな姿を見に来た貴様になど教えてやるものか、そう抗議の意を込めて、ぷいと横を向く。
「そんなだからフラれるんじゃないか?」
「貴様はそんなことを言いにわざわざ来たのか。」
西の戦が終わり、彼の勝利を聞いてからそれなりの時が立った。
彼がこのアジムステップを駆け抜けたのも、その戦を勝利するための一環だったらしい。
それならばなぜ、いちいちいち戻ってくるのかわからない。
西よりさらに遠い場所へ赴いているという話も、本人の口からきいている。
「心外だな、マグナイに会いに来た」
マグナイの方眉がピクリと上がる。
「そうか、存分に見るがよい。満足したならば失せろ。」
「あんたの顔はどれだけみてても飽きないからな。」
こまった、とヒカルが肩をすくめた。
すくめた肩から荷を下ろし、中身をあさる。
これを、と荷物から取り出したのは見慣れぬ装飾の施された瓶だった。
瓶の中身の色がわからないほど、くっきりと濃い緑色の大きな瓶。
細くなった部分をもって、掲げて見せた。
「どこに行っても酒はある。飲むだろ?」
どこかへ旅立ってはこうして訪れた先で調達した酒を持って帰ってくる。
味を見ずに持ち帰るのか、あたりも外れもあるが、この地を離れないマグナイとしては悪くない手土産だ。
「貴様の訪問はいつも増して唐突だ。そう都合よく肴は無い。」
「それはあんたの顔で十分だ。」
何かに触れる物言いに、マグナイは腹の底がむずがゆくなるような違和感を感じる。
ヒカルは楽しそうに酒瓶を揺らして見せた。
「一人で泣きくれるよりは、マシだろ。」
その夜は結局、ナーマと思っていた彼女のために用意した豪勢な二人分の食事を、ヒカルが持参した酒で流し込んだ。
彼女のために用意したのは、正確には兄弟たちのお節介だったのだが、結局無駄にならずに済んだ。
不覚にもまたこの男に妙な恩義が増えてしまった。
珍しくマグナイがヒカルのコップに酒を注ごうと酒瓶を持ち上げる。
彼はいかにも驚いて見せた。
仰々しく両手でコップを持ち上げ、いやに恭しく注がれる酒を受ける。
「ありがとうございます、長兄?」
やはりからかうような口調。面白がっていることが、酔いのせいかあまり気に障らなかった。
酒の味がいつも以上に口に合った。
だからこの男のことが少し気になったのだ。恐らくそうだ。
「ヒカル、お前は余輩よりもナーマに会いに帰るべきではないのか。私の弟たちも、帰るべきはナーマである嫁の場所だ。」
「マグナイこそ、いつまでナーマ探しを続けるんだ。」
「質問したのは余輩だ。答えろ。」
「俺はちゃんとナーマのところに帰ってるさ。」
その言葉が、まるで刃のように、昼間むげにマグナイを袖にした彼女の一言よりも鋭利に刺さったような気がした。
口に含んだ酒の味が、突然わからなくなる。
動揺を見せまいと、できるだけまっすぐヒカルを見ると、彼もマグナイを正面から見据えていた。
ぱちり、
視線がぶつかってはじける音が聞こえるようだ。
その瞬間、ヒカルの表情がほころんで、
「ご希望の通り、会いに帰った。」
言葉の意味を図りかねるマグナイの、開いたコップにヒカルが再び酒を注ぐ。
くらり、頭の芯が揺れる感覚がした。
きっと何もかも、この酒のせいなのだろう。
二人がキスをするまであと100日。
優しい言葉で、しかしはっきりとマグナイの質問をはねつけた女性がまた一人、明けの玉座を去っていく。
彼女と入れ違いに入ってきた、赤みの強い褐色の肌をしたアウラが一人、ヒカルだ。
彼は去っていく女性と、マグナイを交互に見て、マグナイを振り返ると
指をさして笑った。
「無礼だ!」
大声を上げてみたつもりだったが、はかなすぎる希望を失ったばかりで傷が痛く、まるでしおれた声だった。
ナーマに会うには二人きりであることが大事だと、そういう理由ではあったが、兄弟たちに席を外してもらったのは正解だった。
明けの玉座の住人ではないにもかかわらず、草原の覇者という偉業を成し遂げたヒカル。
この人払いをさせている場所に、遠慮なくずけずけと入ってくる勇気があるのも、それを無理に兄弟たちが止めないのもきっと彼くらいのものだろう。
「あんたも懲りないな、今度はどこの部族の子だ。」
「知らん。」
たとえ知っていたとしても、図ったかのようにこんな姿を見に来た貴様になど教えてやるものか、そう抗議の意を込めて、ぷいと横を向く。
「そんなだからフラれるんじゃないか?」
「貴様はそんなことを言いにわざわざ来たのか。」
西の戦が終わり、彼の勝利を聞いてからそれなりの時が立った。
彼がこのアジムステップを駆け抜けたのも、その戦を勝利するための一環だったらしい。
それならばなぜ、いちいちいち戻ってくるのかわからない。
西よりさらに遠い場所へ赴いているという話も、本人の口からきいている。
「心外だな、マグナイに会いに来た」
マグナイの方眉がピクリと上がる。
「そうか、存分に見るがよい。満足したならば失せろ。」
「あんたの顔はどれだけみてても飽きないからな。」
こまった、とヒカルが肩をすくめた。
すくめた肩から荷を下ろし、中身をあさる。
これを、と荷物から取り出したのは見慣れぬ装飾の施された瓶だった。
瓶の中身の色がわからないほど、くっきりと濃い緑色の大きな瓶。
細くなった部分をもって、掲げて見せた。
「どこに行っても酒はある。飲むだろ?」
どこかへ旅立ってはこうして訪れた先で調達した酒を持って帰ってくる。
味を見ずに持ち帰るのか、あたりも外れもあるが、この地を離れないマグナイとしては悪くない手土産だ。
「貴様の訪問はいつも増して唐突だ。そう都合よく肴は無い。」
「それはあんたの顔で十分だ。」
何かに触れる物言いに、マグナイは腹の底がむずがゆくなるような違和感を感じる。
ヒカルは楽しそうに酒瓶を揺らして見せた。
「一人で泣きくれるよりは、マシだろ。」
その夜は結局、ナーマと思っていた彼女のために用意した豪勢な二人分の食事を、ヒカルが持参した酒で流し込んだ。
彼女のために用意したのは、正確には兄弟たちのお節介だったのだが、結局無駄にならずに済んだ。
不覚にもまたこの男に妙な恩義が増えてしまった。
珍しくマグナイがヒカルのコップに酒を注ごうと酒瓶を持ち上げる。
彼はいかにも驚いて見せた。
仰々しく両手でコップを持ち上げ、いやに恭しく注がれる酒を受ける。
「ありがとうございます、長兄?」
やはりからかうような口調。面白がっていることが、酔いのせいかあまり気に障らなかった。
酒の味がいつも以上に口に合った。
だからこの男のことが少し気になったのだ。恐らくそうだ。
「ヒカル、お前は余輩よりもナーマに会いに帰るべきではないのか。私の弟たちも、帰るべきはナーマである嫁の場所だ。」
「マグナイこそ、いつまでナーマ探しを続けるんだ。」
「質問したのは余輩だ。答えろ。」
「俺はちゃんとナーマのところに帰ってるさ。」
その言葉が、まるで刃のように、昼間むげにマグナイを袖にした彼女の一言よりも鋭利に刺さったような気がした。
口に含んだ酒の味が、突然わからなくなる。
動揺を見せまいと、できるだけまっすぐヒカルを見ると、彼もマグナイを正面から見据えていた。
ぱちり、
視線がぶつかってはじける音が聞こえるようだ。
その瞬間、ヒカルの表情がほころんで、
「ご希望の通り、会いに帰った。」
言葉の意味を図りかねるマグナイの、開いたコップにヒカルが再び酒を注ぐ。
くらり、頭の芯が揺れる感覚がした。
きっと何もかも、この酒のせいなのだろう。
二人がキスをするまであと100日。
ヒカルがまた訪れたと、兄弟たちが口にしているのは聞いていたが、折りが悪く方々に出かけ、先約を消化し、あちらこちらへ移動していたせいで、顔を見ないまま夕暮れを迎えた。明けの玉座に戻ると、彼が一度訪れたと伝えられたが、もう彼のにおいも残っていない。
あいつは待つということができないのか、ぼやきながらやっと玉座に戻った足で外へ出る。角度が落ち始めた太陽が、地平線に向けて落ちていく様が目に焼き付いてまぶしい。
明けの玉座の高台から、壮大に広がる草原を見下ろすと、羊が多くはなしてあるあたりに、見慣れた人影が。夕日に照らされてその姿がくっきりと影を落としている。
羊の群の中の大きい岩の上にぽつんと座り、まるで羊飼いのようだ。
冒険者の背中を目指して草原をわたる。
わざと足音高く近づくが、振り返る気配はない。そんなに背筋を伸ばしてすわっているくせに、うたた寝でもしているのだろうか。
あぐらをかいて座るヒカルの真後ろにたつと、振り返らないまま、彼は座る場所を少し端にずらした。
一人分空いた隣に、マグナイも黙って座る。
さっきまでヒカルが座っていた体温が岩にまだ残っている。
盗み見た横顔からは特段の感情を読みとれず、彼はただ静かに沈みゆく夕日を眺めているようだった。
マグナイも倣って夕日を望む。
羊が時折鳴く声や、草をはむかすかな音さえ聞こえてきそうだ。
吹き渡った風が髪をなでて心地がいい。
ヒカルが座っている左側だけ、肌がじりじりと焦げるような心地がした。
ふと思いたって、尻尾をそちらへのばす。こつん、堅い外皮に覆われたヒカルの尻尾にマグナイの尻尾の先が当たる。そのまま何度か上下させて尻尾を叩くと、彼の尾もパタパタと上下し始めた。
相変わらず二人揃って夕日を眺めたまま背中の後ろで尻尾をパタパタと小突きあう。
やがて太陽が沈みきる頃、ヒカルの尻尾が器用にマグナイの尻尾にからんで地面にぱたんと押しつけた。
そこでようやく顔を合わせて、弾かれたように二人で笑う。
「余輩にあわずにこんなところでなにをしておる」
「あんたこそ、いやに静かじゃないか。雪でも降るか?」
「失礼な。長兄たるものいついかなる時も揺らがぬものだ。」
「ふーん?」
からかうように口の両端を上げるヒカルの顔が闇に解ける。
まるで彼が失われるようで、胸の奥がざわりとした。
振り切るように絡まった尾をはなし立ち上がった。
「戻るぞ、皆が待っている。」
あいつは待つということができないのか、ぼやきながらやっと玉座に戻った足で外へ出る。角度が落ち始めた太陽が、地平線に向けて落ちていく様が目に焼き付いてまぶしい。
明けの玉座の高台から、壮大に広がる草原を見下ろすと、羊が多くはなしてあるあたりに、見慣れた人影が。夕日に照らされてその姿がくっきりと影を落としている。
羊の群の中の大きい岩の上にぽつんと座り、まるで羊飼いのようだ。
冒険者の背中を目指して草原をわたる。
わざと足音高く近づくが、振り返る気配はない。そんなに背筋を伸ばしてすわっているくせに、うたた寝でもしているのだろうか。
あぐらをかいて座るヒカルの真後ろにたつと、振り返らないまま、彼は座る場所を少し端にずらした。
一人分空いた隣に、マグナイも黙って座る。
さっきまでヒカルが座っていた体温が岩にまだ残っている。
盗み見た横顔からは特段の感情を読みとれず、彼はただ静かに沈みゆく夕日を眺めているようだった。
マグナイも倣って夕日を望む。
羊が時折鳴く声や、草をはむかすかな音さえ聞こえてきそうだ。
吹き渡った風が髪をなでて心地がいい。
ヒカルが座っている左側だけ、肌がじりじりと焦げるような心地がした。
ふと思いたって、尻尾をそちらへのばす。こつん、堅い外皮に覆われたヒカルの尻尾にマグナイの尻尾の先が当たる。そのまま何度か上下させて尻尾を叩くと、彼の尾もパタパタと上下し始めた。
相変わらず二人揃って夕日を眺めたまま背中の後ろで尻尾をパタパタと小突きあう。
やがて太陽が沈みきる頃、ヒカルの尻尾が器用にマグナイの尻尾にからんで地面にぱたんと押しつけた。
そこでようやく顔を合わせて、弾かれたように二人で笑う。
「余輩にあわずにこんなところでなにをしておる」
「あんたこそ、いやに静かじゃないか。雪でも降るか?」
「失礼な。長兄たるものいついかなる時も揺らがぬものだ。」
「ふーん?」
からかうように口の両端を上げるヒカルの顔が闇に解ける。
まるで彼が失われるようで、胸の奥がざわりとした。
振り切るように絡まった尾をはなし立ち上がった。
「戻るぞ、皆が待っている。」
朝布団から出ようとする服をつかんで「行くな」といってみた。顔を除かせ始めた太陽が窓から差し込みうっすらと輪郭以外も見え始める朝の時間。おおよそのものはまだ眠り、静寂に包まれた
褥の外の空気は冷たい。暖かい床から一足先に抜け出して、もしかしたらマグナイが目覚めるのも待たずに旅だったかもしれない背中を呼び止めた。
彼は振り返り、まだ闇の方が強い部屋の中で目元をゆるめほほえんだ。
「おはよう、マグナイ。」
姿勢を落として額に落とした唇が柔らかい。
はずみで互いの角がふれてこつんと軽い音が鳴った。
口づけた額に額をあわせてくる。ふれる体温から滲む安堵感で、自然瞼が降りた。
「行ってくる」
「行くな」
ヒカルは額をはなすと眉尻を下げて笑った。
「思ってもみないこと言うなよ。」
「全く思っても見ないわけではないぞ。」
マグナイはヒカルの頭に手を伸ばした。長い間長かった髪を短めに借り上げた頭に触れると、独特の触感で指が楽しい。
その手触りで遊ぶように、上から下へ、ではなく下から上へ何度か撫でると、ヒカルがくすぐったそうに笑った。
「困ったな、オレは行かないと」
「わかっている、待っているのだろう」
そう、待っているのだ。彼を待っているのは自分だけではない。こうして彼を閉じこめるわけには行かない。
ヒカルがもう一度額をあわせたのを合図に手を離す。
今度はすべて手放して、自分も体を起こした。
外気に触れた体を、ヒカルが覆い隠すように抱きしめた。
「行ってくるな」
「死ぬなよ」
また今日もアジムステップの山脈を越えて日が昇る。人々が起き出す頃、彼はもうここにはいないだろう。
褥の外の空気は冷たい。暖かい床から一足先に抜け出して、もしかしたらマグナイが目覚めるのも待たずに旅だったかもしれない背中を呼び止めた。
彼は振り返り、まだ闇の方が強い部屋の中で目元をゆるめほほえんだ。
「おはよう、マグナイ。」
姿勢を落として額に落とした唇が柔らかい。
はずみで互いの角がふれてこつんと軽い音が鳴った。
口づけた額に額をあわせてくる。ふれる体温から滲む安堵感で、自然瞼が降りた。
「行ってくる」
「行くな」
ヒカルは額をはなすと眉尻を下げて笑った。
「思ってもみないこと言うなよ。」
「全く思っても見ないわけではないぞ。」
マグナイはヒカルの頭に手を伸ばした。長い間長かった髪を短めに借り上げた頭に触れると、独特の触感で指が楽しい。
その手触りで遊ぶように、上から下へ、ではなく下から上へ何度か撫でると、ヒカルがくすぐったそうに笑った。
「困ったな、オレは行かないと」
「わかっている、待っているのだろう」
そう、待っているのだ。彼を待っているのは自分だけではない。こうして彼を閉じこめるわけには行かない。
ヒカルがもう一度額をあわせたのを合図に手を離す。
今度はすべて手放して、自分も体を起こした。
外気に触れた体を、ヒカルが覆い隠すように抱きしめた。
「行ってくるな」
「死ぬなよ」
また今日もアジムステップの山脈を越えて日が昇る。人々が起き出す頃、彼はもうここにはいないだろう。